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石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年12月28日 - 1987年7月17日)は、日本の俳優・歌手、石原軍団初代総帥、石原プロモーション創始者(元代表取締役社長兼会長)。永遠の大スター(日本人が最も愛した男)と称されることがある。現在のイケメンの元祖でもある。裕次郎カットやポケットに手を突っ込みながら肩をいからせて歩く姿は誰もが真似をしたといわれている。サングラスを掛け、魅力的な容姿と、破天荒ながら包容力にあふれる心遣いで日本中の老若男女があこがれた。担当マネージャーは関町進。
| 目次 |
生涯
石原裕次郎の生涯について、詳しくは所属事務所サイト[1]を参照。日活ダイヤモンドラインのメンバー(小林旭、赤木圭一郎、和田浩治)でもある
生い立ち
海運会社・山下汽船(現:商船三井)に勤める父・石原潔 母・石原光子(彼いわく「田中絹代を美人にした人」と当時は普通に言えた時代があったといわれる)の次男として生まれる。現東京都知事の石原慎太郎は実兄。父の転勤により、兵庫県神戸市須磨区→北海道小樽市→神奈川県逗子市、と港町に育つ。稲穂国民学校時代ではアカシアを好み、逗子中学時代からバスケットボールに熱中し、将来はオリンピック出場を夢見るスポーツ少年だった。また近所と野球チームを結成し、レフトとして活躍したことがある。少年時代、勉強をしないで飛行機の模型を作るのが夢中になり、潔は腹を立てて、模型を全て焼いてしまった。それを見た直後の裕次郎は「死にたいぐらい悔しかった」との事。しかし大人になってみるとその悔しさが全くなくなってしまっていた。それ以降彼の才能(絵画・彫刻・写真)が花開いていく一片かもしれない。
慶應義塾高等学校を目指すが受験に失敗し、当時慶應高校の予備校的な存在だった慶應義塾農業高等学校に籍を置くが、悪友たちにそそのかされ酒と女とケンカ三昧の日々に入る。もともとは海と模型飛行機作りが趣味でこの頃はかなり裕福な生活を送っていたようで、裕次郎16歳、兄の慎太郎が18歳の時に父より当時の日本では珍しかったヨットを与えられるほどであった。これをきっかけに、裕次郎はヨットに情熱を傾けるようになった。父の影響と海への憧れから将来は世界を股に駆けるような船乗りになることを希望していた。
1951年に慶應義塾高等学校に入学し再びバスケットボールに熱中するが、左足膝に大怪我をしたため選手生活を断念せざるをえなくなった。17歳の頃、脳溢血で後遺症の父親の突然の死(彼が日本酒を飲みながらあいさつをしにいったが、死と同時に父を抱き上げて体をゆすりながら優しい顔をしていたエピソードがある。)により性格がぐれ、再び酒と女、そして喧嘩と麻雀三昧といった放蕩の日々に入る。しかし一家の主を失った石原家は困窮に陥っており、1955年の兄慎太郎の芥川賞受賞がなければ一家は裕次郎の為に破産していただろうと後に慎太郎は語っている。
時代は飛ぶが母の死の直前には「モダンだね」と言ったといわれる。
デビュー
その後慶應義塾大学法学部政治学科に進学したが、俳優になるために東宝と大映、日活のオーディションを受けるも全て不合格。しかし1956年に、映画プロデューサーの水の江瀧子(『彼の姿、形、言動をすべて真似してください』と長門裕之にアドバイスした。)と兄の推薦もあり、兄の芥川賞受賞作である日活作品『太陽の季節』の映画版で(太陽族)つまり学生言葉(若者言葉・湘南弁)とヨット(風俗)の指導として駆り出されたが水の江の進言によりチョイ役(台詞としては多少不明瞭だった部分を差し引いても低い声が客席全体に聞こえてくる感じである。つまり台詞の間と抑揚があって説得力があるという意図がある。)としてデビューした(主演は長門裕之と南田洋子)。
最初の頃は満面の笑みで役者に向っていったが、この頃から裕次郎は遅刻が目立ったために、世田谷区の水の江の自宅に住むようになる。デビューして与えられた仕事は髪型モデルである。カメラマンの伊佐山三郎をして、「彼はとんでもない大物になる。阪妻の再来だ。」と言わしめたことがある。裏表がない彼はこのことが大スターのきっかけかもしれない。日活仲間の会は以前に東映から映画作りをしたいと言い出した。それでも彼は「その提示額(映画制作費)じゃ、映画はできないよ」と強攻策に出た。それで長門はアルミの灰皿をぶつけて悔しさを露にして以降口を利かなかったが、しばらくたつと全部記憶を忘れてしまっているおおらかな人でもあった。浅丘ルリ子は「恋人役をやらせたら一番」と称す。
ちなみに劇中での結婚シーンがないがないのは「映画を見た人に夢を与えるため」である日活の方針だったといわれている。
大スター
『太陽の季節』の映画化に際して、日活に原作使用を依頼された兄は弟の主演を条件に出していた(日活側も「彼をスターにしたい」という条件で出していた。)が、すでに主演が長門に決まっていたために、翌1957年に映画化された『狂った果実』に、『太陽の季節』以降人気が高くなっていた裕次郎が主演した。『狂った果実』はその衝撃的な内容と裕次郎の演技が話題を呼び、裕次郎の歌と共に大ヒットし、この作品以降裕次郎の人気は決定的なものとなった。多忙のため1957年に大学を中退している。母は「仕事をしたい気持ちは分かるが、大学を出るまでは学業に専念せよ」と祈念している。(余談だが台詞のない映画もある。)
なおこの年に裕次郎はテイチクと専属契約し、若者の“太陽”であり歌う映画スターともなる(1966年には東芝レコードに移籍の可能性があったとされる)。意外にも副業にも手を出していて四谷でステーキハウス「フランクス」を経営していたことがある。彼はあがり症だった為、車に乗ったとき自分の曲を音楽関係者が歌っているデモテープを聞き、彼なりの独特の歌唱方法を身に付ける。当日のうちに曲と詞を覚え、レコーディングスタジオをについたときには水の江の進言によりレコーディングの時は必ずビールを飲む。レコーディングの際ヘッドホンを生涯一度も付けなかった。またレコーディングは一回で成功したとも言われ、その後はすぐに忘れてしまうという。再度同じ曲に試みる場合は楽譜(詞入り)があれば思い出せるという。吹込みでは数多くのバンドのセッションをレコーディングでこなしてきた。彼はペン字も達筆(手紙において多い)、英語も読み書きが出来たそう(映画・曲で随時流暢なアメリカ英語を披露している)である。
これ以降立て続けに主演映画が(代表作:「嵐を呼ぶ男」)ヒット(台本ネタが3行だったこともある。)し、ブームが起こる。庶民性が大衆に支持されたからである。客が殺到して、草履や羽織まで落ちていたという逸話もある。1959年には成城に豪邸を完成させ話題となった。北原と米国旅行にいき、人気が絶頂を迎えた1960年に日活の堀久作社長の許諾を得て女優の北原三枝と結婚(看病にも来るぐらい仲がよかった)<400人が出席・250人の報道陣>(取材を受けたマスコミよりも、宣伝部長とは彼が生前『ちょっと来ないか。飲もう』という電話をかけるぐらい仲がよかった。)、当時映画スター同士の結婚はタブーであり、また裕次郎はデビューする前から北原(女優業を引退とあるがあれは完全な間違いである。少しではあるがドラマや映画などに出演している。)のファンで、いくつかの映画で共演もしていた。結婚後の記者会見で「独身最後の夜だと思って、ハシゴ酒をあおり、5:30に帰ってきた。」というエピソードがある。(ただし彼の好きなタイプは髪の毛の長い女性だった)彼女のために英語にカナ(ルビ)で発音を書き実際に発音をし苦労をした話が残されている。彼女いわく、「家族は一番、仕事が二番」と評価している。1963年には株式会社石原プロモーション設立と順風満帆の活動を続けた(設立の理由は赤木圭一郎の急死で彼はプロダクションの設立を計画したことによる)。また、『銀座の恋の物語』(1961年)などヒット曲を連発したほか、海外作品『素晴らしきヒコーキ野郎』へ出演するなど幅広い活動を行った。1968年 には三船プロとの合作で『黒部の太陽』を制作し大ヒットした。また芸能人所得番付が5000万円(当時)→8000万円(当時)と別格であった。
沖縄県出身の男性は「さっそうと町を歩く米兵より、彼の歩き方がいい。彼を見ると勇気がわいた。歩き方をまねて、肩を揺すりながら映画館から町に繰り出した。心の底までしびれるようなときめきを思いだすと、胸を張って歩ける」と彼の生き様を生き生きと語っている。
交友関係
交友関係が広いことでも有名で、落語家の林家三平とは家族ぐるみの付き合い(後に三平一家と石原軍団との付き合いに発展して、裕次郎・三平が共に亡くなった現在も深い関係は続いている。司葉子、(同様な例に映画でジャニーズと共演したことをきっかけとして親密となっているジャニーズ事務所も挙げられる)歌手の美空ひばりや、俳優の勝新太郎とは義兄弟の契りをかわしていたと言われる(裕次郎の告別式の際には勝が弔辞(引用:「生きている時も死んでいる時も思いやりがあったが、生きていながら、死んでいるようなやつが多い中で、死んで、また生き返ったこのすごさ。頭が下がる。そんなすごい男から「兄弟」と呼ばれて、オレも幸せだった。ありがとう。どうせどっかで会うんだから…。(勝は10年後にこの世を去る。)」)を読んでいる。高倉健は葬儀には参列せず静かに見守るだけであった)。また安藤昇(横井事件安藤組と揉めて歌謡ショーの興行の禁止通告されたことがある。)とは犬猿の仲である。
交友の広さはスポーツ界にもおよび、栃錦、若乃花、力道山や往年の読売ジャイアンツのクリーンナップ2人と親交が深く、長嶋茂雄を「しげ」(ベースボールマガジンで対談経験も持つ)、王貞治を「さだはる」と呼んでいた。特に長嶋との親交は深く、1962年には夫人とともにアメリカに年始旅行にも行っていた。他に池田勇人、青木功、エルビス・プレスリー、岡本太郎とも交遊している。
趣味
なおこの頃も兄の慎太郎とともに学生時代から続けていたヨットレースを続けていた。ヨットにかける情熱は俳優活動よりも強かったと言われ、初の太平洋単独横断を行った堀江謙一の実話をモデルとした『太平洋ひとりぼっち』に主演した(この作品が石原プロモーション設立後の最初の作品である)。
また映画の撮影やヨット活動のために度々訪れていたハワイが一番好きな場所であり、静養のためにハワイに別荘を所有していた。現在、正月をハワイで過ごす芸能人が多いが、そのハシリとなった人物である。
他にも、当時日本では力道山と三橋美智也と裕次郎の3人しか個人で所有していなかったと言われるメルセデス・ベンツ 300SLを所有していた他、キャディラックなど複数の高級車を所有するほどのカーマニアであった。
実はキャンピングカー(撮影用・特製車両)を所持している。ヨットをイメージしており内部は彼自身がデザイン(海とヨットをイメージし、白いボディーには赤と青のラインが描かれている)と設計(船体にある丸窓やキャプテンシート)を手掛けたという。3500万円で購入したが、その内の3000万円を内装などにかけたといわれる。
闘病の中での活躍
彼の変革は「恋の町札幌」が発売された1972年に始まる。編曲者の(小谷充)は今までのムード歌謡から一変してリズミカルな演奏をしながら石原裕次郎が歌ってレコードがヒットしたことから、以後他の作詞者、作曲者、編曲者、スタッフそして共演者が亡くなるまで徐々にポップス路線に切り替えている工夫が伺える。また俳優としての仕事において同年には日本テレビ『太陽にほえろ!』(東宝制作)に出演。
これを期に映画を離れ、本人及び石原プロはテレビドラマに足場を移す。名実ともに“ボス”であった。その後、同じく日本テレビ「大都会」シリーズを制作し、事実上続編のテレビ朝日『西部警察』が大ヒットを飛ばすが、その最中の1978年に舌癌により入院した。なお本人には「舌白板症」と伝えられた。1980年には成城の自宅において、古墳時代の遺跡、土器が発見されたこともある。
以降も俳優や歌手としての活動を続けたものの、1981年に解離性大動脈瘤で入院し、担当医も「危険な状態」と記者会見で述べるなど重篤な症状だったが、手術によって奇跡の復活を果たす。手術成功のあと、慶應義塾大学病院の屋上から、まき子夫人、渡哲也と共に手を振るシーンがワイドショーで中継され、お茶の間に感動を与えた。この時の担当医の一人が、後に宇宙飛行士となる向井千秋である。この件を巡っては異常な報道合戦が繰り広げられたのみならず、見舞い客は12000人、手紙5000通、花束2000束、千羽鶴1000束、さらには彼の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった。またこの頃、アニメ映画『わが青春のアルカディア』で初代ハーロックの役で声優デビューしている。その出演時間が約5分間であったにも関わらず出演料が1000万円以上であったため話題となる。なお、大動脈瘤を患って以降は左の耳に難聴を来たしていたが、歌や俳優の仕事に大きな影響はなかった。このあたりからポップス路線に完全に切り替わった。
その後原発性肝臓癌に侵されるが、本人には告知されなかったために俳優および歌手活動を続けた。癌が見つかった時に兄の慎太郎は「本人に癌であることを告知すべきだ」と主張したが、石原プロモーションの大番頭小林正彦専務は「度重なる大病との闘いであの人(裕次郎)はもうへとへとになっている。そこでもし今回の病の正体を告げたら自ら命を絶ちかねない」と反論、それを慎太郎も受け入れて告知しないことに決めたという。また石原まき子も彼の熱意に答えて病気と悟られないように演技をしていたという。
1986年の『太陽にほえろ』の最終回にて「1シーンだけ自分の言葉で語らせてほしい。」と言う彼のリクエストにより、10分間にわたり命の大切さを語っている場面がある。
闘病さなかの1987年に発表した『北の旅人』はオリコン1位を獲得した。当時52歳7か月であった裕次郎は、2007年に小田和正が『こころ』でその記録を更新するまで、歌手として最年長オリコン1位獲得者となっていた。このレコーディングには酸素マスクをしながらの録音を2月中に2日間行った。『我が人生に悔いなし、俺の人生』も同様である。
『我が人生に悔いなし、俺の人生』は裕次郎が「人生の歌を歌いたい」と作詞家のなかにし礼に直接リクエストして出来た曲であるが、なかにしはこのリクエストを聞いた瞬間に「死の匂いをかいだ」と後に語っている。
なお、『北の旅人、想い出はアカシア』は療養のために滞在していたハワイでレコーディングされたが、裕次郎は絶え間ない微熱とたびたび大量の鼻血を出すような体調の中でレコーディングをしていたという。そのため、作曲家の弦哲也は見かねてハワイに飛び立ち気遣うようにしたという。裕次郎は最後のレコーディング後、テレビ朝日『ミュージックステーション』にてハワイからの衛星生中継に登場し、近況報告を行い「BEYOND THE REEF」を現地から熱唱した。しかし、これが最後のテレビ生出演となった。ハワイでの療養中にも体調の悪化が見られた裕次郎は帰国を嫌っていたが宝酒造会長大宮隆の進言により帰国を容認した。
死去
再び慶應義塾大学病院へ入院し一時帰宅が許されたものの本人が拒否、治療も空しく、1987年7月17日金曜日16時26分に入院先の慶應義塾大学病院にて肝細胞癌で死去した。。実は幼少時代から肝臓は悪かったといわれている。
なお死去当日のミュージックステーション(テレビ朝日)は19:30から90分の緊急追悼特番を組み故人を偲んだ(この対応はきわめて異例であった)。また、フジテレビジョンは21時00分からの金曜エンタテイメントシリーズ枠で『紅の翼』(日活映画)を追悼番組として急遽放送した。
7月19日に関係者による密葬が行われ、8月11日に青山葬儀所で石原プロ・テイチク合同葬が行われた。その後海洋葬として海に散骨した。理由は慎太郎が湘南の海が好きだった裕次郎の遺骨を散骨したいと願い出たからである。その間の1990年に映画の殿堂入りを果たしている。
石原が亡くなった日、東京は梅雨明け宣言がされたばかりであったが、その翌日から葬儀・告別式が終わるまでは戻り梅雨に見舞われ、東京の梅雨明け宣言が取り消しになった。なお、裕次郎が亡くなった1987年、自宅に強盗が入ったことがある。また、2004年には彼の墓が何者かにずらされていたこともある。
戒名は陽光院天真寛裕大居士。墓は神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑には夫人が彼に対するイメージを詠った詩が刻印されている。
「美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。」
死後の活躍
死後にもテレビドラマや映画、楽曲は高い人気を誇り、また兄の慎太郎によるベストセラーである『弟』をはじめとする関連図書も多く出版されている。近年もジョイサウンドやダイドードリンコのCMにデジタル合成で出演した事があり、話題を呼んだ。
なお、2005年頃より通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する裕次郎の代表曲の多くに裕次郎の映画の背景映像等を流用したものが使用されている。代表例が石碑である「狂った果実・恋の街札幌・そして銀座の恋の物語」である。銀座の恋の物語の石碑は銀座の老舗バー「ルパン」のマスターだった高崎武の呼びかけで、銀座通連合会やテイチクなどが中心となり1990年7月に建立。黒御影石で高さ90センチ、幅1メートル70センチ。碑の両側にはカップルが座れるスペースがあり、大高ひさを直筆の碑文となっている。
怪我・病気の遍歴
彼は怪我や病気と多く闘っていた。そこで年譜にしてまとめる(1956年以降)。
- 1956年:この頃まで、酒とたばこと女に溺れる無職の日々を送る(高校生の頃に黄疸が出る)。
- 1957年:自由が丘で無免許運転し右足打撲(もう一つは映画ロケ中にデッキチェアーに手を挟み右手薬指負傷)。
- 1961年:スキー場でスキーヤーと衝突し右足首粉砕複雑骨折(後に右太股腫性膿瘍の手術で入院)。
- 1964年:ハワイでヨット乗船中に右瞼を11針縫う。
- 1965年:ヨット乗船中に腹痛のため大会を途中断念。
- 1967年:右手親指骨折及び左足打撲で入院。
- 1968年:右足打撲で全治1ヶ月入院。
- 1971年:心労と胸部疾患(後に急性肺炎→肺結核)のため映画宣伝中に入院。
- 1974年:階段から転倒し左肩打撲(後に左鎖骨骨折)
- 1978年:舌下潰瘍(舌ガン)で入院し悪性と診断される(1983年再発)。
- 1979年:舌下白板症と診断され術後部に潰瘍ができ再び手術。
- 1981年:背中と胸に激痛が走り椎間板ヘルニアと疑われる。そしてついに生還率3%の解離性大動脈瘤と診断(後に左耳が難聴となる)→退院後首や腰に痛みが出るもお炊き上げで回復するが発熱。
- 1984年:肝臓ガンと発覚し、倦怠感・腰痛の末原因不明の発熱にいたる(前の定期健診で肝細胞ガンと診断される)。
- 1986年:慶應義塾大学病院に緊急入院。肝内胆管炎の為、療養先で静養。
- 1987年:慶應義塾大学病院に入院、退院した(カテーテル治療)ものの容態悪化(高熱)、ついには幻覚症状を発する。そして肝細胞癌でこの世を去る。父と同じ52歳であった。
主な代表映画
映画配給代表20作品(年代順・日活調べ)
- 1957年:「嵐を呼ぶ男」-3.4億円
- 1958年:「陽のあたる坂道」-4.0億円
- 1958年:「明日は明日の風が吹く」-3.2億円
- 1958年:「風速40米」-3.1億円
- 1958年:「赤い波止場」-2.7億円
- 1958年:「嵐の中を突っ走れ」-2.8億円
- 1958年:「紅の翼」-3.6億円
- 1959年:「若い川の流れ」-2.7億円
- 1959年:「世界を賭ける恋」-2.7億円
- 1960年:「天下を取る」-3.2億円
- 1960年:「喧嘩太郎」-2.7億円
- 1960年:「闘牛に賭ける男」-2.9億円
- 1961年:「あいつと私」-4.0億円
- 1961年:「堂々たる人生」-2.9億円
- 1961年:「アラブの嵐」-2.8億円
- 1962年:「銀座の恋の物語」-3.0億円
- 1962年:「花と竜」-3.6億円
- 1964年:「赤いハンカチ」-2.8億円
- 1968年:「黒部の太陽」-7.9億円(観客動員734万人、興行収入16億円)
- 1970年:「富士山頂」-2.8億円
- 上記のほかにもすべての映画をあわせると、現在の物価で換算すると約1兆円にもなるという。
出演映画
(1956年)
(1957年)
(1958年)
(1959年)
(1960年)
(1961年)
(1970年)
(1971年)
(1972年)
(1973年)
(1976年)
(1982年)
(1984年)
出演ドラマ(テレビ)
出演ドラマ(ラジオ)
レギュラー番組
- 石原裕次郎アワー(1957〜59年、文化放送)
- 今晩は石原裕次郎です(1963〜64年日本テレビ)
- すてきな仲間(1966年NET)
- やあ!石原裕次郎です(1982年、ニッポン放送)
- THE YUJIRO(2003年〜ミュージックバード)
ゲスト出演
- 太陽の季節をめぐって(1957年・文化放送)
- ひこばえショー<銀座の夜は生きている>(1957年・日本テレビ)
- 七面鳥の贈り物(ナレーションとして1957年・文化放送)
- ジェスチャーゲーム(1958年・NHK)
- 私の秘密(1958年・NHK)
- 歌謡ビッグ・パレード<結婚記念特集>(1960年・文化放送)
- テイチク大行進(1963年・新宿厚生年金会館)
- 女性専科(1964年・東京放送)
- ゴールデン歌まつり<石原裕次郎リサイタル>(1965年・フジテレビ)
- 歌謡ビッグショー(1966年・東京放送)
- スクープ!!<男・裕次郎再起す!>(1971年・テレビ東京)
- 金曜スペシャル<男の世界>(1972年・テレビ東京)
- ビックショー<あの青春の詩―そして今も―>(1975年・NHK)
- 太陽は今も輝く!(1975年・テレビ朝日)
- 徹子の部屋(1977年・テレビ朝日)
- 水曜スペシャル<〜この素晴しき仲間たち〜>(1977年・テレビ朝日)
- 人に歴史あり(1978年・テレビ東京)
- ビックショー<男ひとり、気ままな夜>(1978年・NHK)
- 北帰行・小樽(1978年・NHK)
- 水曜スペシャル<石原裕次郎25周年記念>(1979年・テレビ朝日)
- スター千一夜(1979年・フジテレビ)
- 石原裕次郎のすべて(1982年・テレビ朝日)
- 石原裕次郎スペシャル(1985年・テレビ朝日)
- ザ・ベストテン(1987年・東京放送/死後)
歌手活動
写真集
出版
連載
CM
大会出場
- 大島ヨットレース(1959年・1963年)このときに「コンテッサIII」がデビュー。
- トランス・パシフィック・レース(1965年・1973年・1975年)
- アドミラルズ・カップ・レース(1977年)
- パンナム・クリッパーカップ・ヨットレース(1982年)
- インビテーショナル・ゴルフ大会-途中ホールアウト(1986年)
エピソード
- 食通としても知られ、懐石料理・カレーライス・ビーフステーキなどを好み、洋和食問わず好物が多かった。また、料理好きでもあり、自宅には自身の調理器具もあったほか、別荘やヨットハーバーでバーベキューや手弁当を楽しむ写真も数多く残されている。
- チェーンスモーカーであり、大病を患う前は、休暇中には朝食にビールを飲むほどの酒豪であった。また、日本酒も好み、宝酒造のイメージキャラクターを務め、企業のイベントに参加するなど親密な関係を築いた。(喫煙も大病後に一時禁煙していた。)
- 「身長182センチ・体重75キログラム・股下90センチ」と、日本人離れした大柄な体型であると宣伝されたが、176cmの長嶋茂雄と並ぶ写真をみると、その公称身長には疑問もある。兄の石原慎太郎は公式HPで181cmとしている(小樽駅の4番ホーム「裕次郎ホーム」には等身大の裕次郎が置かれ身長182センチ・体重75キログラム〔1978年当時〕となっている) 。
- 台詞覚えが悪いことで知られ、最初は妻に注意されていたが、挙句の果てには台本を開いた状態で机の中において演技をしたこともあるという。
- 別荘を山中湖、石和温泉にもち、芦原温泉の定宿で寛ぐ事が晩年多くなった。
- レコードが擦り切れるほどジャズ・山中節を聞いていた。
- 『ガッチャマン』は日活版(実際には作らなかった。※主役は裕次郎)を想定して作られたとされている。
- 一度失踪した経験がある。原因は三枝との結婚を真剣な答えを探そうとして逃げたのである。実際はホテル『ブルースカイ』の打ち上げ中急行「銀河」に乗り京都の都ホテルそして神戸のオリエンタルホテルを経て松廼家に滞在した。事実、帽子を目深にかぶった彼は芸者と朝から晩まで大宴会をしていた。10日後スタッフや関係者が松廼家を包囲した。この件で彼は芸者たちに正座をしながら『ここで過ごしてきたご恩は忘れることはできません』と大粒の涙を流し続けたという。後年彼は「マスコミノイローゼもあるが、僕のわがままでやってしまった」とあっさりと否定している。
- 1965年にピストル密輸事件で家宅捜索され、拳銃不法所持問題で謝罪する(主犯格は百瀬博教)。
- 1981年の手術後、「喉が渇いているので、ポカリスエットが飲みたい。」と筆談で懇願し、売上が急増。大塚製薬からはトラック1台分のポカリスエットが病院に届けられたといわれている。
- 1980年頃、裕次郎は視聴率の件でニールセンを肯定しビデオリサーチは電通が影響している理由で否定するスタンスをとっていたという。
- 紅白歌合戦には毎年辞退していたといわれている。
- 三回忌や七回忌、十三回忌などの節目の日や、裕次郎の命日近くになると必ずと言っていいほど雨が降ったことから、森田正光が「裕次郎雨」という単語を季語にすることを提唱し、俳句の募集を行っている。
- メキシコオリンピックやビートルズ日本公演を観戦したといわれている。
- 日活の堀久作社長は「赤い波止場」のラストシーンで手錠をかけられたことを受けて「彼に手錠をかけた馬鹿者がいる」と年頭の挨拶に出るほど激怒したことがある。
- 青山の『ブルーシャトー』へ飲みに向っているときに土砂降りにあったり、長岡からの帰りに大磯ロングビーチのレストランで小銭しかないため年配が「出世払いで払え」と申し出た。1年の間払っていなかったが、払いに行こうとしたらその年配がすでに他界していたため店名名義で支払ったエピソードがある。
- 勝とは渋谷のドンキホーテで酒を飲んでケンカしたことがある。勝はこのとき「これは芝居だ」と優しい目がすばらしかった彼を賞賛している。これ以降勝は彼をすごい人すなわち計算が早い人(彼の『嵐を呼ぶ男』のドラマーのまねが大好きだったという。)だとしている。
- 由美とは11PMのカバーガールに抜てきされたとき、問い合わせ殺到で日本テレビの電話回線がパンクしたが、その中に彼のものもあったといわれている。
- 浅野ゆう子(中学生を警察で働かせていいのか=労働基準法に抵触する恐れがあるという要望から短期間での降板であった。)は「私の方が彼よりまた下が長い」といった逸話が知られているが、本人は否定している。(だが浅野は彼に対してフランクな態度で接していたという説もある。)その後彼は「お前、世界に向けて仕事をしていくべきだ」と女優生活の糧となる言葉を贈っている。
- 余談としてクリスマスソング(1966年)のアルバムに初挑戦。担当者(テイチク)は「実はストーリー性に富んでいることを意識して制作するのではなく、新しいものに挑戦した結果そうなった。クリスマスソングのアルバム発売も、おそらく日本人では初めてだった(不明)と思う。」と振り返っている。「赤鼻のトナカイ」を例にして考えると山本ただしの訳詩を採用している。
- 最初ドラマの仕事は気乗りをしていなかった。映画が失敗し、金銭的に苦境だったからである。「太陽にほえろ」では最初1クールの出演を予定していたが、竜雷太(『テレビをバカにしないでください』)や日本テレビ等の説得もあり15年のロングランとなったのである。
- 黒部の太陽では熊谷組豊川工場で2ヶ月の間作業員を10人ほどつれて演技練習をしたが、掘削機で岩を掘ったり、破砕帯を突破できるかどうかを関西電力から迫られたシーンは有名である。
- 近藤は彼の『歌手をやめろ。俳優をやれ』という衝撃的な言葉を受け入れることができなかったが、彼が後に発した『俳優は一生の仕事にあらず』という言葉を聞いて立ち直ったといわれている。
またある日のこと。青山のブルーシャトーに酒酔い状態で入った近藤はマスターが「彼が来ると思わなかった」と『裕次郎』(ラベル)を差し出した瞬間マスターは立ち去ってしまった。それを見計らってそのブランデーを飲み干したという。
評価
家族・親族
典子
┃
┣━━━━┳石原伸晃
┃ ┃
┏石原慎太郎 ┣石原良純
┃ ┃
石原潔 ┃ ┣石原宏高
┣━━━┫ ┃
光子 ┃ ┗石原延啓
┃
┗石原裕次郎
┃
まき子
関連項目
関連する人物
脚註
- 1^ 石原裕次郎 年譜 1
、2
、3
、4
石原プロモーションオフィシャルサイト
外部リンク
石原裕次郎に関するカテゴリ。




